夜は終わらない

複雑に入り組んだ現代社会とは没交渉

23021 ヴァージニア・ウルフ著 土屋政雄訳「ダロウェイ夫人」ネタバレ感想 #光文社古典新訳文庫

一番直近で買った光文社古典新訳文庫版で読了しました。

なぜこう書くかというと、「ダロウェイ夫人」は3,4種類持っているんですよ。

 

めぐりあう時間たち」という映画とその原作に興味があるんですけど、まず元ネタを読まなければという使命感にかられ、それにヴァージニア・ウルフはいくつか読んだほうがいいと、これもまた使命感にかられていたので気持ちが逸って20年前からじわじわと買っちゃってて。3冊は確実にある。光文社古典新訳文庫版合わせて4冊。

 

 

でも手っ取り早く読んじゃうのはKindle版ですね。

それにこちらの作品は、段落がなくとめどなく一人の思考が続くことがあるから、集中が切れてどこを読んでいたかわかんなくなる場合があると(「失われた時を求めて」とか「吾輩は猫である」とかでよく起こる現象)画面からの情報が少なめなスマホで読むとかの方が向いているんですよ。

 

「わたしはいつまでこのページの先頭を読んでいるのだろう…」というあの気持が軽減される。

 

なので人にもよるけど紙より電子書籍のほうが読みやすい作品かもしれない。Kindle Unlimited対象作品ですしね。

 

6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する――生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる、20世紀文学の扉を開いた問題作を、流麗にして明晰な新訳で!

 

出だしの一文はわりと有名で、「めぐりあう時間たち」でも活用されています。クラリッサがお花を買いに出かけるシーンですね。

私はそれ以外はまーーーったく、なーーーんにも知らない状態で読んだんですよ。

ヴァージニア・ウルフバイセクシュアルだったとか、オルランドーみたいな面白い感じの本も書いたとか、お亡くなり方が悲しかったとかくらいしか知らない。

でもこの作品はどこでも名作のランキングのトップの方にあがりがち。

いま自分の中の課題図書リスト「ガーディアン読ま死ね1000」でも対象作品です。だから最優先に読んだんですよね。いっぱい持ってるんだから先に読もうと。

 

発表されたのが1925年で、グレート・ギャツビーと同じ年で時期的に1ヶ月とかくらいしか変わらないんですよね。発表された年代を確認したのは、どちらも共通して暑さの描写が多いから。熱波とか。書かれた頃がそれより少し前の年月でしょうけど、例年より暑かったんだろうなと容易に想像が出来る。

1925年というと他にも後世に伝えられる名作が発表されていていい年だったのかも、第一次世界大戦が終わってそれで失ったものに対して振り返るとかちょっと落ち着いているけれど世界的には忙しない時期ですね。世界大恐慌のちょっと前。

 

ダロウェイ夫人が花を買いに行く先ですれ違う人たちにくるくる視点が変わったり、その人達の事情が挟まれたり、そこに境目がなく、呼ばれる人の名前もラストネームやファーストネームでまとまりなく変わるので若干混乱するところがあるのですが、私はメモと雑感を落書きしながら読みました。

 

徐々に本当にどうでもよかった人もいれば、物語の重要な部分に食い込む人も出てきてメモを振り返ったら「これ必要なかったな…」って部分もあるんですけど、重要人物を描写するには大事かもしれない?ピーターの彷徨は結構蛇足だったけど蛇足含めてのピーターという男なのかもとか。

各登場人物に対する考察は深読みすればするほどなにか出てきそうではあります。そんなの気にしなくてもその頃のロンドンにいた人たちの目線や様子に触れられることが出来るのが、対象がニッチになるけど喜びにつながるかもしれない。私は嬉しかったな…20世紀前半のロンドンとか住みたくはないけど憧れだもの。

 

様々な人の視点がいちいち利己的で性格が悪かったり、思慮が浅かったり、意地悪だったりするけどアラフィフ、アラフォーが読むと「周りの人なんてだいたいこんなもの」と受け止められる。自分も含めてあんなもんですよ。だいたいいらんことを考えてる。若い人にとっては幻滅かもしれないね。そして作中でも翻弄されたり置いてけぼりになるのは若者。

 

その移りゆく主観の中で重要なのがセプティマスという戦地帰りでPTSDを患っている青年なのですが、彼の身の振り方がダロウェイ夫人に齎すものを知ることによってダロウェイ夫人が内心どんなふうに生きてきたかがじわっとわかる。

時々挟まれてた「それだけのこと」「もはや恐るるな」にもつながるのかな。

 

↓ここからネタバレ

 

ざっくり書くとセプティマスが自分が結婚したり大人になって社会を知るごとに失ってきたものを大事に持ったまま死んでいったのかな、とまったく他人事ながら、上流階級のパーティーのホステスという激務だけど意義のある仕事をこなしているときに彼の死に触れて行き着く結論が結婚した自分に対するケリの付け方なのかもね。

 

ヴァージニア・ウルフはセプティマスを出さなかったらダロウェイ夫人が死んでいたとか仰ってるのでアラフィフのダロウェイ夫人の、満たされているようで社会的に緩慢に死んでいっている感じがそこかしこにあります。

 

昔なじみ(元カノ、1970年代漫画的親友の関係性)のサリーの現在も含め、「夫人」になった女性が多く出て彼女たちの内部での折り合いの付け方や行動がさまざま描写されていながら、一人ひとりが口に出すことと内面で折り合いをつけようとしている部分と本音が多層になっていて噛み砕いていっても息苦しいんですよね。でもこれ現代でも全然変わってないところがある。自立は出来るようになってるけど、息苦しい存在は別のなにかが置き換わってるだけでやっぱり息苦しいまま、というか生きているうちは息苦しくあるべきって本人がどこかで思ってる部分があるもんね、男女を問わず。

 

そんなことを上梓から110年を経て感じさせてくれる、たしかに名著だし読んでいて面白かったですよ。視点がころころ変わるのも面白ければ、出てくる人の大体がわりとえげつなく、ハイライトはダロウェイ夫人とミス・キルマン(ダロウェイ夫人の娘の家庭教師、そうは書かれてないけどオールドミスで自分を惨めに思っている頭以外いいところがない活動家)の表ににじみ出るほどの内心でのdisりあい。もうニュータイプかっつーくらいの内心での罵り合い。

 

そして英国文学では欠かせないところがある「強いババア」がまた出てきて強いです。

洋の東西を問わずババアは強いものなんでしょうけど、ほんま強くて主人公をざわつかせるんですよババアが。

ババアが出たときにもう面白いの確定だったもの。

 

よかったとは言い難いけど面白かったですよ。当時の上流階級やPTSDへの考え方など見て取れました。けっこうえげつない、そこがいい。人の内面の描写って絶対美しくないから読めるんだと思います。自分のことをチラッと振り返るきっかけにもなるかもね。

 

古典新訳文庫はいまどきの文体で読めるのが売りだと思っているんですが、この度ちょっとだけ引っかかったのが「おセンチ」という言い回しですね。

ちょいちょい出てきてその度に「いまこの言葉を使うかどうか」に引っかかっていたので、これだけでも話の種になるかもしれないです。

 

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