夜は終わらない

複雑に入り組んだ現代社会とは没交渉

ミステリと言う勿れ 5巻 からの、暴力や雑な仕事に関する日頃のあれこれ

 読んだからにはなにか書かないといけない使命感っていらないと思いながらも書く。

ミステリと言う勿れ (5) (フラワーコミックスアルファ)
 

 今回はDVとその復讐についての話でしたが、整くんの過去や将来の夢のようなものもチラッと出てきましたね。

DVに対して救済のその先ってあまり語られないけれど、ひどい親から引き離されれば幸せになるとは限らないのは確かにある話で、よりよい環境が提供されないことはままある。DV被害者中心に肉親といられない子供ばかり集められた施設が清らかに機能、維持するのは相当難しい。施設にまとめられることで本来当たり前にある自由がなかなか得られないし。身近な人に保護されるにしてもその大人がまともかどうかも結局は個人個人の事情や性格次第だしね。ちゃんとした人が多いのは知っているし、真面目であればあるほどしんどいこともあるのも知っている。と思う。

 

ということを考えさせられる。子供が非力だからと感情のままに言葉や物理的な暴力を加える大人はものすごく多い。まっとうに見える人すら、そして健やかな環境に見える場所にいる子供ですら、まったくひどい目に遭わないことはたぶんないのであとは本人の気の持ちよう、受け取り方と対処の術を教えるほうがいいのかもしれない。大人と子供の境界線などなく、いい加減酸いも甘いも噛み分けて分別知っているでしょ、と思う67歳でも86歳でも未熟だったりする(誰のこと)

 

私は主に言葉の暴力でひどい目に遭っていたので多少のひどい扱いには全然堪えないというか、周りがしょーもないことで心を折っていくのを見て「いや、そのくらい覚悟しておいたら大したダメージないのに、相手を見くびった結果でしょ、世の中に性格のいい人なんかなかなかいないんだから」って思ったりもするのですが、自分のメンタルの強さなんて世の中のなんの役にも立たない(ドラマの行方にはメンタルよわよわのくせに)し、鍛えるにはやっぱり筋トレみたいに自分を精進させないといけないからね、そんな環境本当はいらないでしょ。

 

そんなことを考えさせられたり、ちょっと前の回ではいじめについて言及されていたり、最近取り沙汰されがちの普通の家でもあり得るふかーーーーーーい闇の底をザラッと出してくるのにどこかのほほんとしているこの話すごいなと。

 

アメリカの司法の話、チェックするシステムの話が出てくるけれど、日本のお役所仕事はもしかしたら、個人の「面倒くさい」が絡むか絡まないかで機能してるかどうかが違うんじゃないかなと、わりと身近なお役所の処理を見ていて感じています。個人レベルの「忙しい」「面倒くさい」が絡んでそこでまともに機能しそうにないから、チェックするシステムというものをきちんと採用しないのかも。

チェックといってもテキトーに書類をさらっと見るだけのなんと多いことか。そして関わる人も事実と異なったりずれた報告を報告をしたという事実だけを明確にした書類で済ませたり、誘導尋問で自分の思うようにコメントを吸い上げ、それを書類に落とし込んで済ませることが多い。だからチェックしたときにはわからなかったとんでもない事実が発覚したときに責任の有り所を巡って騒ぎになる。

 

人の生活が左右される大事な事案なのに、対処する人にはそのへんにあるいくつもある事案の一つだから適当に処理される感じもある。

面倒くさいには理由があって、仕事を抱えすぎていたり、本来やりたかった仕事じゃなかったり、上司が嫌いだったり、同僚が嫌いだったり、いろいろな個人的な事情が絡んでくるんだろうけど、その面倒臭さを取り除いてやるにはお役人の生活環境と仕事環境が良い状態であったほうがいい。結局なににつけてもモチベーションを上げるのはお金と環境だなーって。DVする人だって、性格的な問題もあるとは思うけれど充実していて愛があればやらないかもしれないし、不満を抱えてネガティブな気分をばらまいている人も充実した生活を送ったらそんなことやらない。

本人の気の持ちようも十分にあるけれど、結局息苦しい環境を与えてやるべきことに身が入らない原因になっているのはなんだ?って。

 

どれだけ自己中心的な人でも、優しくされたり尊重されたらそこで頑張ろうと思うしなにかできることはないかと目配りするようになると、私は長い間管理職をやっていて思うようになったんですが(いまは管理職じゃないですよ)、雑に扱われると自分も誰かを雑に扱っていいって思うようになっちゃう。そこからDVやその他の暴力につながると思うのですよ。

 

自分がされたから他人にしてもいいというのは愚かなことで、必要なのは「だけど自分はやらない」って気持ちで、それが広がれば自然と暴力は減ると思うのだけど、なかなかそこへ行き着くことができない。何処で誰が教えればそう考えられるようになるんでしょうね。

 

作品とは全く関係ないけれど、茨木のり子さんの詩が頭をよぎりました。

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい

 

 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 

 

ってなことは心理学とか哲学方面のうちの親友とお婿と話すともっと難しい話になっていくのでとりあえず内省にとどめておきますが(お婿は読むけど)、今後星座のモチーフからどんな話に転がっていくのか、楽しみですねえ。