夜は終わらない

複雑に入り組んだ現代社会とは没交渉

ニュータイプ2月号 ユーリの記事を読んだ…よ?

 ユーリのピンナップはスリーピングビューティーの頭に謎の左手という、絵面なのはもういい加減周知されているだろうけれど、肝心の記事は見開き2ページながら、「特に何もない」という人と「とんでもねーことが書いてある」という人で二分されていて、後者のおっしゃることに目を向けるとたしかに驚いたので確かめてみた。

ニュータイプ 2017年2月号

ニュータイプ 2017年2月号

 

 大昔から大好きなFSSが連載中でまずそっちにも目を向けちゃう…

 

それはいいとして、ネタバレしない程度にどの程度とんでもねーかというと、ユーリ最終回のラストの勇利のモノローグの解釈と勇利がどうしてその道を選んだかの解釈がはっきりするというかガラッと変わるというか…

と、いうかそこで挙げられている勇利の最終回のモノローグとされるものが、実際に聴いたものと半分以上違うの。

それを記事を手掛けたライターの私見と捉えるか、ライターが記事を書いた時点で得ていたユーリ最終回の資料ではそうなっていたのか、私はあれこれ考えたけれど直接質問するのもどうかと思うので頭を捻っているところ。

 

「一人で抱えるには大きすぎる夢じゃなきゃたどり着けない場所がある。僕らは愛と呼ぶ。氷の上のすべてを」

が実際本編で聴いた勇利のモノローグなんだけど。

この「ぼくら」ってスケーター全員のことなのか勇利とヴィクトルのことなのかそこも気になるところだけどここではあんまり考えないことにして(誰か代わりに考えてくださってもよろしくってよ)、ニュータイプで挙げられていた勇利のモノローグではヴィクトルのことを「きみ」って呼んでいるのと、ヴィクトルへの想いが熱い。あと、スケート<ヴィクトルなの。「離れずにそばにいて」に沿っているのも気になる。

「きみ」って時点で私見かβ版くさい。勇利は一度だって二人称で呼んだことがないものね。対等な感じがして悪くはないけれど、イメージとは違う。

 

こっちが実際あのシーンで使われていたら私はそこでも死んでいたかもしれない…

が、物語の趣としては本編で使われたほうがいいと思う。収まるところへ収まるというか、前向きで今後への期待も膨らむ感じ?スケート<ヴィクトルなのも、一部の視聴者にとっては気に入らないかもしれないしねえ、私は大歓迎だけどね。

ヴィクトルもどちらかと言うと自分のスケート<勇利のきらいがあるからあのモノローグはどちらかと言うとヴィクトルのものであるほうがしっくりするというか、勇利のものなら相思相愛なんですね…知っていたけれどね…

 

「ぼくら」は、勇利はスケーターを一括りにしたときに使うようなので(4話の競技人生の短さの話とか)そっちでしょうね(自分で結論づけた)

 

って私が冷静に判断したときに限って答えは逆だからね!

 

ニュータイプで挙げられていたものが実際は使われなかった勇利のセリフだったとしたら本当にすごいんだけどな。ラスト手前の世界選手権で五連覇しろという話からの流れなんだろうけれどなあ…

 

しかし読んでいるとゲシュタルト崩壊してきて私見にも見えてくる…

 

というか、最近いろんな雑誌でユーリの記事を読んでいるけれど、今回のニュータイプのユーリの記事…

 

いや、あんまり否定的なことは書くまい(お察しください

 

このまま行くとまた冴姉さんが出てきそうだし答えは見つからないのでもういいや…

 

ニュータイプという雑誌自体は大好きですよ、FSSを連載しているってだけで国の宝だと思うよ!